『手話を言語と言うのなら』への久松氏の批判とそれに対する反論

『手話を言語と言うのなら』への久松氏の批判とそれに対する反論




・本ページは、『手話を言語と言うのなら』(2016年、ひつじ書房)に対する久松(2016年)「手話言語法とろう教育(3)」の批判を採りあげるものです。
・『手話を言語と言うのなら』の著者たちが集まり、日本手話で討議をおこなって、本ページをまとめました。
・久松氏の議論の多くには、言語学やその関連分野に関する誤解が見受けられるように思われますので、その点について、一般の方にも理解されることを願って説明しました。




■著者たちが手話で討議する様子




『手話を言語と言うのなら』

◆批判
「手話言語法とろう教育(3)〜「手話」から「手話言語」の時代へ〜」pp.12−26 『ろう教育の“明日”』No.74 2016年12月13日発行
著者 久松三二


●反論
森壮也・佐々木倫子編
『手話を言語と言うのなら』(2016)ひつじ書房
著者 森壮也、佐々木倫子、赤堀仁美、岡典栄、杉本篤史、戸田康之、森田明、秋山なみ、高橋貴美重、玉田さとみ、木村晴美



1.医学モデルではない

◆久松(p.12)
(『手話を言語と言うのなら』の著者チームが)従来の「医学モデル」の枠組みの中で語っているのだと理解しました。


●『手話を言語と言うのなら』チーム
著者チームに医学モデルの枠組みで書いている人はいない。
・「医学(個人)モデル」:障害に伴う問題の原因を個人の障害に求めて、障害者個人への治療や改善、目立たなくしようとすることが問題の解決につながるとする考え方。
・「社会モデル」:障害を社会の側に求め、環境改変や社会システムの変更を問題解決の手段として求める。




2.言語をモーダリティの側面からしかとらえないのは早計

◆久松(p.12)
日本語は音声言語です。この日本語を表出する手段が、「音声」であり、そして書きことばとしての「文字(墨字)」があります。これら日本語の「音声」または「文字(墨字)」にアクセス出来ない人が、「文字」「点字」「空文字」「指文字」「指点字」「手話」「触手話」等を、自らの身体的特性に基づいて選択するのです。


●『手話を言語と言うのなら』チーム
上記の論は、手話をモーダリティの問題(言語をどういう手段で表わすか)としてしか認識していない。
日本手話が日本語と異なる文法を持った独自の言語であるという認識が欠如している。




3.モーダリティからしかとらえられない言語観は「医学モデル」

◆久松(pp.13-14)
・「医学モデル」の典型的な例は「日本語」だと思います。
・日本語も「社会モデル」の考え方に即した言葉に変わってくるようになります。


●『手話を言語と言うのなら』チーム
・そもそも特定の言語と「医学モデル」「社会モデル」のような障害モデルの区別に直接の関係はない。上記の記述はこの両者を混同しているため、議論自体が成り立たない。
・モーダリティでしか手話をとらえない見方のほうが医学モデルといえよう。上記の論は、障害学の理解と異なる。
 (M.オリバー著、三島ほか訳『障害の政治 イギリス障害学の原点』、p.46、明石書店、2006年)




4.ソシュール(フェルディナン・ド・ソシュール)の引用

◆久松(p. 14)
・ソシュールの「言語とは価値の体系である」という考えを実感できるのですが(略)
・言語を恣意的に区分けするのではなく、表層的な現象の事実を一つ一つ科学的な視点で記述することの必要性を説いたのです。


●『手話を言語と言うのなら』チーム
ソシュールについて「価値の体系」論を言っていたのは、故丸山圭三郎で正確には「価値体系としてのラング」。
(丸山圭三郎著『ソシュールの思想』岩波書店、1981年)
この価値というのは、一般の「価値」という意味ではなく、言語上の差異に近いもの。
それを上記は社会的な価値と誤解しているため、正当な批判として成り立たない。




5.国際手話

◆久松(p.15)
「国際手話」と言う日本語があります。この言葉は英語に翻訳すると、「International Sign(インターナショナル・サイン)」 であり、「language(ランゲージ)」がつかないのです。


●『手話を言語と言うのなら』チーム
・International Signは日本語の「国際手話」を英語に翻訳したものではない。International Signは主として欧州で使われている共通の手話。それを全日本ろうあ連盟が「国際手話」と訳した。
・WFD(世界ろう連盟)はInternational SignがInternational Sign Languageと呼ぶに値するか何度か会議を持って議論しているが、Languageと呼ぶに至っていないと判断されている。
(Whynot, Lori, A., “Understanding International Sign―Sociolinguistic Study”, Gallaudet University, 2017)




6.Signとは

◆久松(p.15)
英語の世界では、「sign(サイン)」と「sign language(SL:サイン・ランゲージ)」は明確に区分されていますが、日本語の世界では「手話」の使い方や「手話」への見方はあいまいです。その理由は、「手話」を表層的な現象としてしかみていないからです。


●『手話を言語と言うのなら』チーム
英語ではsignはしぐさ、合図、看板、標識、表示、しるし、証拠、記号、符号などを表す普通名詞。それらと「手話」を区別するためにsign languageという必要がある。よって、上の主張は該当しない。 確かに日本における「手話」という表現はあいまいである。しかしそのことと手話を表層的に見ているかどうかは無関係。




7.「言語」とは何か?

◆久松(p.16)
「言語」とは意思等を伝え合うための表層的な現象と文法等の深層的な現象とをあわせもった体系です。


●『手話を言語と言うのなら』チーム
意思を伝え合うこと(コミュニケーション)は言語がなくても可能であるため(ジェスチャーや顔の感情表現など)、「言語とは」という言語の定義と「意思を伝え合うこと」は直接の関係はない。




8.手話言語学の体系

◆久松(p.16)
「音声言語学」と言う言葉(日本語)はありませんが、「音声学」はあります。「手話」の世界でも、「手話言語学」の体系の中に「音声学」と同じように「手話学」という学問があってよいと思います。


●『手話を言語と言うのなら』チーム
手話言語学は言語学の一分野と広く認識されている。音声学は言語学の下位分野であるが、音声言語のみを研究する学問ではない。実際、手話音韻論とは別に手話音声学という分野が存在する。現状では「手話学」は「手話関連研究」のような意味合いで使用されていることが多い。







以上のように主だった誤解についてまとめました。 このように、異なる理解を持つ方に、本書の意味するところを明らかにすることは、大切だと感じます。
これからもろうコミュティの多様なテーマについて、より深い理解をめざして話し合いが重ねられることを願っています。(著者一同)




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