「易しさ」と「難しさ」と

―「マックで中国語」始末記―

                          内 田 慶 市

 文科系の、しかもコンピュータとはおよそ無縁の感すらある中国語学を専門とする 私が『マックで中国語』と言う本をひつじ書房から上梓したのには幾つか理由がない わけでもない。

 コンピュータと中国語には古くて新しい関係がある。古代中国人の発想法に「陰陽 二元論」があるが、その言語への反映が、たとえば「反訓」とよばれる現象である。 「乱」は「乱れる」という意味の他に「治まる」という全くその反対の意味を持ってい る。同じように「離」に「離れる」と「かかる(網にかかる)」という意味があったり、 現代語でも「給」は「あげる」「くれる」、「借」には「借りる」と「貸す」という意味を 持っていたりする。「売る」「買う」は、声調こそ違え、音はいずれも「mai」である。 まさに「正反合=対立物の統一」の世界がそこにはある。またこのような陰陽二元論 から世界の森羅万象を表現しようとしたのが「易」であり、この原理はまさにコン ピュータの原理、すなわち「二進法」そのものなのである。「易」の「卦」は上下3本 (上卦と下卦)ずつ、合わせて6本の棒(爻)からなるが、その棒に「陰」「陽」の二種 類があり、その組み合わせは全部で64通りになる。コンピュータの用語を使えば、 「上位3ビット」と「下位3ビット」の組み合わせということである。

 コンピュータには不向きと思われがちの中国語が実はこのように、コンピュータと 極めて近い位置にあったのである。

 ただ、原理的にはそうであっても、やはり中国語をはじめとするアジア系の言語、 いわゆる2バイト系言語は、1バイト系のヨーロッパ系の言語に比べてコンピュータ で扱うには困難が伴うものであった。

 私がコンピュータを扱うようになったのは、自分の教育、研究上の必要からである が、最初の頃は、とにかく中国語を表示出来ることが感動ものであった。ただ、使っ ていくにつれ、同じ文書内での日本語・中国語・英語の混在や、データ処理におい て、98やDOS/Vではどうしても不満が残り、最終的にマックを使うようになったわ けである。マルチリンガル環境はマックに一日の長があった。(ただし、現在では
Windowsでもある程度可能であるし、UNIXならば更にいろんな可能性がある)ただ し、マックでも中国語環境の構築に際して、当時はまだ厄介な問題を多く抱えてい た。中国語システムがなかなか入手できなかったり、入手しても漢字トークに組み込 むのに様々な障害があったりで、そんな問題を解決するためにNiftyの外国語やマル チリンガル関係のフォーラムに入会することになった。

 その後、チャイニーズ・ラングェッジキットが登場して、ようやく現在のように中 国語の環境が容易に構築できるようになり、マルチリンガル環境は使える段階に入っ たと言える。ところが、キットの登場によって日中混在環境を必要とするユーザが一 気に顕在化するのに伴い、一方ではそのインストールや入力方法等でつまずく人も増 えてきた。Niftyのフォーラムでもそれに関する質問が多く寄せられるようになり、 「中国語システム構築のためのハンドブック」の必要性を強く感ずるようになった。

 そんな時に、ひつじ書房房主の松本さんと偶然知り合うことになった。マルチリン ガルに関心を持つ有志で、マックワールドエキスポでマルチリンガルのセミナーみた いなのをやろうという話が起こり、その呼びかけ人の一人が松本さんであった。

 ひつじ書房については、近代語関係の書籍や私の大学時代に英文科の先生をしてお られた澤田治美先生の著作を出している所ということぐらいしか知らなかったが、ま さかそこから「マックで外国語」のシリーズを出すことになろうとは、まことに不思 議な「縁」である。

 「マックで中国語」はひとえに著者の怠惰によって、予定よりも大幅に遅れて刊行 されたが、反応は様々であった。「待望久しき本」というお褒めの言葉や、一方で「値 段が高い」という意見、中でも特に考えさせられたのは「序章 初心者のために」に ついてである。

 この章は、初めてマックを触る人のために、マックの基本的な操作等を述べたもの であるが、「もっと超初心者のために」が必要だという意見があった。これでも随分 易しく書いたつもりであったが、読む側に対して著者の思いが伝わらない場合もある のである。「それは読む側の責任だ」「ある程度は自分で勉強してもらわなければ」「そ こまで面倒は見れないよ」と言ってしまうのは簡単ではあるが、「初心者のために」と した以上はやはり書き手の責任は問われなければならないだろう。

 近頃「猿にもわかる……」とか「極楽・気楽……」とか言うタイトルの本が多いが、 実際には「猿」どころか人間でもわからないものが大半である。「猿にもわかる」と言 う以上は必ず猿にもわかってもらわないと責任を果たしたことにはならないのであ る。

 最近私はマック以外にFreeBSDとかLinuxというPC-UNIXを使い始めているのだ が、まさに「超初心者」の段階である。インストールの段階からしょっちゅうつまず くわけだが、その都度メーリングリストなどで質問をしている。ところが、「カーネ ルを……」「ブートの際に……」「コンフィギュレーションを……」とか専門用語がポ ンポン飛び出し、あげくには「その辺りは基本的な本で勉強してから聞きなさい」と まで言われたりしている。答える側には自明のことであっても、聞く側は必ずしも自 明でないことは多いのであるが、そのことを答える側はわかってはいないわけであ る。このことは、別にコンピュータの世界だけでなく、日常茶飯事のことであり、言 語生活の中ではよくあることである。コミュニケーションの難しさはそこにある。

 言語は人の表現の一つであり、対象―認識―表現という過程的な構造を持ってい る。聞き手や読み手は、表現された形式(文字や音声)を手がかりに相手側の認識、 さらには対象へと追体験していくことになるわけである。また、語彙や語法は「言語」 そのものではない。言語は実体ではなく、話し手や書き手を離れて言語は存在しな い。言語を存在させるものは「人」であり、「場」である。文体や語彙は「易しく」て も、それが相手側に「易しい」とは限らないのである。そして何よりも書き手が対象 を如何に理解しているか、その理解の度合いが問題となってくる。認識の深さであ る。それが深ければ、「易しい」言葉でも内容を深く表現することもできるし、浅け れば如何に文体は平易でも相手方に理解させるのは困難であるということになるであ ろう。

 私は言語論、言語観を時枝誠記、三浦つとむの著作から多くを学んだが、私も、三 浦つとむの「日本語はどういう言語か」「こころとことば」のように「易しい」言葉で 深い内容の文章をいつの日か書ければと願っている。

 まこと「易しい」ことは「難しい」ものである。

(うちだ・けいいち/関西大学教授)