我々は「引用」といえば、中学・高校時代に習った英語の「直接引用」「間接引用」という文法事項をすぐに思い出すであろう。「直接引用」とは元々の発話のそのままの再現、一方、「間接引用」とは元々の発話を引用の場面に合わせて述べることであり、そのため「時制の一致」などの文法操作が必要になってくる、というのが一般的な理解であろう。しかし、このように自明のことのように思える言語現象も、よく観察してみると、必ずしもそのとおりではないことに気づく。まず、英語の例を見てみよう。
(1) In New York Egyptian Ambassador Golbol, speaking to the American Jewish Congress, said building more settlements will not give Israel peace. Rather, he said peace will come from co-living in harmony between the Jews and the Arabs. (CBS TV News, Dec. 1978)
(ニューヨークにおいてエジプト大使ゴルボル氏は、米国ユダヤ協会に対する話の中で、さらにセツルメントを設けてもイスラエルに平和は訪れないと述べました。むしろ、ユダヤ人とアラブ人が調和ある共存生活を行うことで平和はやってくると述べました。)
上のデータはアメリカのテレビニュース(CBS)からのものだが、それが「書き言葉」を読み上げたものであることは容易に判断できる。しかし、それにもかかわらず、「時制」は一致」していない。「規則」からいえば、主文の述語が過去形"said"であるため"(more settlements) will .../(peace) will ..."は「間違い」で "(more settlements) would ../(peace) would ..."となっていなければならないが、実際はそうではないのである。ただ、さらに詳しく調べてみるとこのような「時制の不一致」は日常会話やラジオ・テレビのニュースなどでは頻繁に行われるが、新聞、書物などではむしろその規則が順守されていることも判明する。つまり、ラジオやテレビなど"here and now(今この場で)"という発話の場を直接反映するメディアにおいては主文の述語(引用動詞)の時制も、従属節(引用句)の述語も発話の場を軸として決定されるが、一方、発話の場と一歩距離を置く新聞等のメディアにおいては従属節の述語の時制は主節のそれに「引きずられる(back-sliding)」というわけである。言い換えれば、「時制の一致」は発話の場面、媒体にコントロールされるルールであるということが分かる。
日本語には英語のような「時制の一致」というルールはないようである。しかし、次のような事例は何を物語るのであろうか。筆者は京都に在住するのであるが、あるとき出張先の東京の某書店から、大阪のある病院へ、姉の見舞いに出掛けた妻に連絡を取るため電話を入れたのだが、運悪くその場に妻が居合わせず、看護婦さんが妻に伝言を残すことになった。その看護婦さんに残した伝言をできるだけ忠実に思い起こしてみると、筆者は次のように彼女に述べた。
(2) 「家内にまだしばらく東京の書店にいるので電話してほしいと伝えて下さい。」
ところが、帰宅後、妻が看護婦さんからもらった伝言のメモを見るとそれは次のとおりであった。
さん
(3) 「主人 からtelあり、しばらく東京の本屋にまだ居ますのでtelくださいとのこと」(下線筆者)
(2)と(3)を注意深く比較してみると、いわゆる「伝言ゲーム」に見られるような「伝え違い」では説明できない言語事実が現れていることに気づく。つまり、(3) において下線で示されている「居ますのでtel下さい」という表現がもし元々の発話の忠実な「再現」だとすれば、筆者は妻に向ってそのように丁寧な表現を用いているということになる。しかし、実際は(2)が示すように、筆者は「内容」のみしか看護婦さんには伝えていず、例えそれが記憶違いであるとしても、「居ますのでtel下さい」という表現は妻には用いないでのある。一般に日本語学では間接引用は直接引用から「変形操作」を経て導かれ、その際、元々の発話にある丁寧の「です、ます」は間接引用では普通体の「だ、る」に取って代わられると考えられ、日本語教育においてもそのような文法操作の練習が行われる。そうすると、しかし、元々の発話(2)にある「普通体」(「まだいるので電話してほしい」)が、(2)を引用した(3)において「丁寧体」(「ます、下さい」)になっていることはどのように説明できるのであろうか。ここで、むしろ、明らかなことは、看護婦さんは元の発話(2)の形態に関わらず、「さん」と書き足したとたんに、「丁寧モード」になり、そのような表現で伝達したというこである。
若干長い前置きになったが、これらの事例が示唆することは、引用という言語行為はそれが直接引用であれ、間接引用であれ、新たな引用の場のコンテクストを最優先して行われるということである。そもそも、引用とは読んで字のごとく、ある発話を別の発話の場(以後、「引用の場」)に「引いて、用いる」という、言語が言語であり得る汎言語的な機能である。しかし、言語にそのような、言語が言語そのものについて語るという「メタ言語機能」があるということは、逆に、元発話が真に存在するか否かは二次的な問題となる。元発話が存在しても、していなくても、我々は言語的に元発話らしきものを存在させ、それを引用することができるのである。したがって、筆者が「まだいるので電話してほしい」と表現していようと、「まだ居ますので電話して下さい」と表現していようと、あるいは、筆者による元発話が実は存在していなくても、そのようなことは二次的な問題となる。ただ、元発話があるという前提のもと、何らかの原則に基いてその(架空の)元発話を引用し、そして引用の場に相応しい表現を創りあげるのである。このように「引用しているようでいて、引用していないかもしれない、しかし、引用している」という言語の創造的メカニズムを探るのが引用研究の目的であると筆者は考える。
「引用」とはある発話を別の発話の場に取り込む言語行為であり、「話法」とはそれを言語的に表現する方法のことである。また、「引用は引用にして引用にあらず」と言ったからといって、決して、元発話を文字通りに引用、表現する言語機能の存在を否定しているのではない。直接引用とは、元発話の可能な限りの再現だとする「引用句再現説」(砂川1989など)、あるいは、元発話が有する特徴の標示、演出であるとする「引用句演出説」(Clark and Gerrig 1990)も引用の一面は捉えている。しかし、そのような「引用句模倣説」は「引用」という言語行為の一部にすぎない。筆者の唱える「引用句創造説」とは、確かに、例えば法廷における証言のように、元発話の忠実な再現を目指すことも、あるいは、元発話らしくその特徴を捉えた引用を行うことも、あるいは(3)のように元発話には存在しない表現を創りあげる引用も、すべてそれらは引用の場におけるコンテクスト(そして、スキーマ)にもっとも相応しい表現を創りだす行為の結果だということである。「直接話法」というものが元発話のとおりではなく、引用の場のコンテクストにあった、それでいてそこには「直接話法スタイル」とも呼ぶべき何らかのルールに沿って生成される。そのような表現をもう少し見てみよう。
(4) (ある大学総長(60歳前半、男性)が国から表彰され、その大学の教職員による祝賀会で述べた本人のスピーチ)
まあ、「お前ようやってきた、ほめてやるぞ」というようなことでこの賞をいただいたのですが…
(5) (テレビ座談会)なだ:…で。僕なんかうちにいるでしょ。ゴロゴロいるとね、「父親が汗水たらして働いて」なんてね、母親が言ってもね、「汗水たらして働いているもんかあ」って「ぐうたらゴロゴロしてるじゃないか」って…。そういうところが見えちゃうんですからね。
これらは元発話を「再現」したものとか、「演出」したものであると考えると、元発話がどういうものであったかを突き止めるのが非常に困難となる。困難というより、このような引用句は元発話の形態を無視して作られたのだと考えなければ、説明が付かない。例えば、(4)の場合、元発話の話者である国の役人は表彰授与式では、極めて丁重な挨拶をしたはずで、そうだとすると、それはおそらく、次の様なものになるであろう。
(4)'?? 「あなたは長年にわたり、私立大学の育成に多大なる功労を尽くされましたので、ここにその功績を賛え、藍綬褒章を授与します」というようなことでこの賞をいただいたのですが…
ここで引用表現に「??」を付けたのは、もし、このように元発話を(それに忠実な形で)「再現、演出、模倣」したとすると、伝達の場、つまり、「祝賀会」のスピーチとしては「不適切」なものになるからである。敢えて、元発話を無視した引用表現である(4)のほうがここでは「適切」なものなのである。(5)についても同様のことが言えよう。話者(作家、なだいなだ)の家族でこのような表現が実際交されているかどうかというより、ここではこのようにくだけた表現が「適切」であるという点が(4)と共通する。実際、直接引用表現はそれが元発話の模倣を志向していようといまいと、「直接話法スタイル」という「規則」に合ったものが生成されている。逆にいうと、引用でなければそのようには表現しないが、直接引用だからこそそのような表現スタイルを取る、という「規則」が働いているようである。
(6) (ロサンゼルスにおける日本人留学生射殺事件について)「日本人だってんで、警察は躍起になって、俺たちんとこ来て、『おい、お前だろう』って、だれ彼なしに聞いて回ってね」と(黒人の)フロッギー君(19)。 (朝日新聞 1994.4.4.下線筆者)
(7) 三国:あの、今井さんでも … んー、夜酒飲むともう、昼間の鬱憤が出ましてね、「バカヤロー、三国なんかの言うこと聞くなー」なんて、お酒の勢いでしゃべって、助監督と話してるのがありました。 (NHK-FM「日曜喫茶窒」)
(8) カルーセル麻紀:ええ、ミュージックホールの人達はみんな、私のことを「お嬢、お嬢」って言うんですよ。…それでみんなが私のことを「 お嬢、お嬢」って言ったら、「まあ、美空ひばりじゃあるまいし」ってみんなに言われてね。 (トークショー「徹子の部屋」)
ダイクシスには指示詞に限らず、敬語表現、呼称詞など、ソーシャルダイクシスと呼ばれるものがあり、(4)(5)のように直接引用句に頻繁に現われる。(6)は、まさしく、「翻訳」の際に起きるステレオタイプ化が引用表現スタイルを特徴づけたものである 。(7)の「バカヤロー」「聞くなー」なども言いきり文としては、使用に困難を感じるものであろうが、引用句だからこそ無理なく使用されている例である。(8)に見られる畳語表現も、「雨がざーざーと降っている」などの擬態・擬声語との関連性を伺わせる直接話法表現の特徴である。こ のように我々は、元発話を「再現する」というよりは、何らかのルールにしたがって直接引用表現というものを「創造」していることがよく分かる。そして、それがたとえ「直接引用」であるからといって、伝達の場に「適切な」表現であるためには、その場の言語環境を無視できないことも言うまでもない。これらの観察から、当然、次の様な仮説が立てられることになる。
引用句創造説:日本語の引用表現は、元々のメッセージを新たな伝達の場においてどのように表現したいかという伝達者の表現意図に応じて決まる。
この仮説にはいくつかの帰結が伴う:
(a) 直接引用であれ、間接引用であれ、元発話とかけはなれた引用を行うか、元発話を再現するような引用を行うかは、伝達の場における伝達者の意図によって決まる。
(b) 直接引用であれ、間接引用であれ、伝達の場への適合を無視することはできない。
(c) 伝達の場を構成するのは話して、聞き手、言及を受ける第三者、ダイクシス、及びソーシャルダイクシスであり、引用表現はそれらの相互関係を伝達者の意図に応じて調整した結果の産物である。
ちなみに、筆者(2000)は、元発話と類似した形態で直接引用を行うタイプを「一卵性直接引用」、元発話との類似を目指さない形態で直接引用を行うタイプを「二卵性直接引用」と呼び、それらの類別を図った。
社会言語学の重要なテーマの一つにコードスィッチング(以下CS)という言語行為がある。最も顕著な例は二言語併用地域(例えば、モントリオールにおける英語とフランス語)での言語混用を意味するが、二言語といわなくても日本語における2方言(標準語と方言)の混用もそれに近い。更に、引用というものはそもそも一人の話者の発話の中に別の発話を取り込むという一種のCSでもある。つまり、他者の発話を取り込むか、自分自身の発話を取り込むかの差は別にして、人間である限り、大なり小なりのCSを常時行っているのである。そして、CSにしろ引用にしろ、とりわけ、引用の場合、それは「同化(assimilation)」という言語現象の一部と考えられる。(元)発話が別の発話の場に取り込まれ、その場に強く「同化」すればするほど、より「間接的な」引用となり、逆に、その場への「同化」が阻止されればされるほど、より「直接的な」引用と言えよう。このプロセスは次のようにまとめられる。
「間接話法」とは、ある発話を新たな伝達の場で引用する際、その場にできるだけ同化させて表現する方法であり、一方、「直接話法」とはできるだけ同化させないで表現する方法である。
このようなプロセスを解明するのが、引用、および話法研究の大きな課題であるが、日本語に関してはまだわずかしか分かっていない。ここでは、まず、引用という言語行為になくてはならない「(元)発話」とは何かを考え、それが新たな場に「同化」される過程を探る。
「発話」とは何か。その定義付けは「文」のそれのように、万人が納得行く形で記述するのは容易でない。しかし、それがどのような形態(話し言葉とか書き言葉)のものであれ、そこに話者(書き手)の、ある命題に対する態度、つまり、モダリティが内在すると考えることは、決して無理のないことであろう。つまり、どのような発話にも命題とそれに対する話者自身の態度、つまり、モダリティが備わっている、と考えられる。逆にいうと、モダリティが命題をその発話に付着させ、発話を形成させていると考えられよう。例えば、「(太郎は)花子に僕の家に来いと言った。」という表現における引用句「僕の家に来い」は「命題」(アナタがワタシのウチにクル)に話者(「太郎」)が「働きかけ」(命令)のモダリティを被せることでもって、一つの「発話」となっている。このように「発話」を捉えると、ある発話を別の伝達の場に引いて、用いる「引用」の分析に肝要なことは、(元)発話を発話たらしめている「命題」と「モダリティ」が新たな伝達の場においてどのような形態で出現するかを究明することになろう。このことは、しかし、一般によく言われている、伝達者の「視点」の置き方によって話法の変換が左右され、元発話寄りの視点を持てば「直接話法」に、逆に新たな伝達の場寄りの視点にすれば「間接話法」になるということ以上の意味を持つ。「引用」を言語の同化現象の一部として捉えると、「視点」の「同化」のみならず、発話が内在的に持つ「発話性」(発話の発話らしさ)の新たな伝達の場(地の文)への「同化」の「度合」こそ話法形態を決定する鍵であることが明らかになる。次の例から具体的に話しを進めよう。
(9) (太郎は)花子に僕の家に来いと言った。
(10) (太郎は)花子にここに来るようにお願いした。
(9)の引用句「僕の家に来い(と)」は元話者(引用句の発話者)である「太郎」の命題に対する「命令」のモダリティを有す。それ故にダイクシス「僕、来い」は元話者の視点を保持した状態で引用されている。一方、(9)においては引用句「ここに来る(ように)」に元話者のモダリティは保持されていず、むしろ、ダイクシス「ここ、来る」はこの文全体の話者、つまり、伝達者の視点を反映するのである。したがって、(9)は(10)ほどこの伝達の場に同化したものとは言えない。逆に、(10)は(9)に比べると遥かに同化の進んだ「間接引用」と言えよう。また、(9)のほうが(10)より強い発話性を持っていることも言うまでもなかろう。しかし、(9)の発話性、(10)の伝達の場への同化の度合、つまり、「間接度」の高さは他の類似文と比べるとどうであろう。まず、(9)の発話性から検討する。
(11) (太郎は)花子に僕の家に来いよと言った。
(11)の引用句に現われる終助詞「(来い)よ」はそれを持たない(9)の場合と比べると遥かに強い発話性を有している。実際、(10)に見られるような「命令」のモダリティは次に見るように、ともすればダイクシスの解釈を伝達者寄りのものに許すこともある。
(12) 私が行けと先生がおっしゃるものだから(私が)やってきました。
通常、命令文はその主語に第2人称しかとらないが、引用されると(12)のように「私が行け」という選択をも許してしまう。そして、「私」の解釈は、当然、文全体の話者、つまり伝達者のものとなり、地の文への同化、間接化を許すのである。ところが、終助詞「よ」や「〜てください」に託されたモダリティの出現は決してそのような「間接化」を許さない。
(13) *私が行けよと先生がおっしゃるものだから(私が)やってきました。
(14) *私が行ってくださいと先生がおっしゃるものだから(私が)やってきました。
この事実は発話に内在的に存在するモダリティにもその発話性の度合という点で強弱があることを示している。ここに詳述する余裕はないが、「〜だろう、かもしれない」などは「命令」のモダリティよりも更に「間接化」を許す。
(15) 太郎は昨日僕に、今日は誰も僕の家へ来ないだろうと言ったけれど、実際には十人もやってきた。(廣瀬1988: 13より。下線部筆者)
下線部「僕」の解釈は元話者の「太郎」でもあれば、「実際には十人もやってきた」等の影響を受けて、この文全体の話者「僕」でもあり得て、「間接化」を許すこととなる。しかし、この場合も、「だろう」ではなく、「でしょう」が用いられるとそのような「間接化」は完全にブロックされる。
(16) 太郎は昨日僕に、今日は誰も僕の家へ来ないでしょうと言ったけれど、実際には十人もやってきた(そうだ)。
このように、「命令、判断」のモダリティは「文脈の影響を受けやすく」(山内、投稿中)、そのため、より強い「同化(間接化)」を許すことになる。一方、「よ」や「でしょう」は、全く「間接化」を受け付けず、命題全体にすっぽり「衣」を掛けるように覆いかぶり、発話性をフルに発揮する。筆者(2000)はそのようなモダリティを「衣掛けのモダリティ」と呼び、他のものと区別する。「衣掛けのモダリティ」には「です、ます、でしょう、終助詞(ね、よ、など)、イントネーション」などがあげられる。一方、「間接化」を許すモダリティには「判断」の「だ、だろう、かもしれない」等があり、「働きかけ」のモダリティはそれらとの中間に位置するのではなかと考えられる。また、「表出」「述べ立て」(仁田1991)などのモダリティの振る舞いも興味深い「間接化」を許すものである。後ほど、それらについて触れる。また、筆者はこれまでの研究で、「劇的効果」も作り出す「衣掛けのモダリティ」に欠け、文脈によってはダイクシスの変換も許すような引用句を「準直接引用句」と呼び、他の引用句との区別を行う。
「衣掛けのモダリティ」による発話性が「間接化」を阻止しているのとは逆に、「間接化」をより促進するものに、命題を凝縮、語彙化してしまうプロセスがある。(10)「(太郎は)花子にここに来るようにお願いした。」よりさらに伝達の場への同化の強いものとして、次の様な表現をあげることができる。
(17) (大阪にいる太郎は)花子に来阪を願った。
ここでは、モダリティの存在どころか、「ここに来る」という命題をさらに凝縮させ、「来阪」という形にまで変えた「間接化」が起きていることが分かる。
さきに発話に内在するモダリティには発話性を強く発し、別の発話への同化をブロックするものから、同化を許し、元発話に含まれるダイクシスの解釈を新たな伝達の場の視点を反映するものに「変換可能」にするものまであることを見た。ここでは、仁田(1991など)の研究で明らかにされたモダリティと主格の選択制限が言い切りの発話の場合と、引用という同化作用の中とでは異なる振る舞いをなすという興味深い現象を観察する。紙数の関係上、「表出」のモダリティ「〜タイ」、「述べ立て」のモダリティ「現象描写文」についての主要な部分のみ考察する。まず、日本語の感情表現は「伝達スタイル」("reportive style" Kuroda, 1973)の独立文の場合、主格は第一人称に限られる。そして、第三者の感情は述べ立て文である「〜タガル」という表現に頼らなければならない。
(18) a. {わたし/*あなた/*かれ}は家に帰りタイ。
b. {*わたし/*あなた/かれ}は家に帰りタガッテイル。
しかし、これらが引用されると次の様な主格の選択へと変わる。
(19) a. 太郎(i)は花子に{*わたし/*あなた/かれ(=φ、じぶん) 1) (i)}が家に帰りタイと言った。
b. 太郎(i)は花子に{わたし/あなた/*かれ(=φ、じぶん) (=i)}が家に帰りタガッテイルと言った。
つまり、独立文においては「ワタシが〜タイ/*ワタシが〜タガル」という主格選択を示すが、oが示すように、引用句においてはそれが「*ワタシが〜タイ/ワタシが〜タガル」という主格選択に「転回」しているのである。述べ立てのモダリティ「現象描写文」の場合はどうであろう。
(20) (ほら!){*わたし/*あなた/こども}が運動場で遊んでいるよ。
(21) 太郎(i)のやつ、{わたし/あなた/*かれ(=φ、じぶん)(=i)}が運動場で遊んでいるとみんなに言っているようだ。
独立文の「現象描写文」は主格を第三人称に限定するが、Rが示すように、引用句においては逆に第一人称(場合によっては、第二人称も)を主格にし、第三人称を主格にすることができない。ここでも「表出」のモダリティと同様、主格選択が「転回」している。このような「転回」にどのような原理があるかを述べる余裕はここにはなく、詳細は鎌田(2000)を参照していただくしかないが、(19)(21)のような引用句の「間接度」はどのように記述すべきであろうか。それらが直接引用でないことは、衣掛けのモダリティである終助詞「よ」を付加するとよく分かる。
(19)' b. 太郎は花子に[*わたしが家に帰りタガッテイルよ]と言った。
(21)' 太郎のやつ、[*{わたし/あなた}が運動場で遊んでいるよ] とみんなに言っているようだ。
終助詞「よ」を付加することで、独立文を作ることになりこれらの引用句が非文的になるのは当然といえば当然である。では、引用句内の「視点」はどうなのであろうか。
(19)''b. 太郎は花子に[わたしが 家に 帰りタガッテイル]と言った。
伝達者の視点(間接) 「太郎」の視点(直接)
(21) 太郎のやつ、[{わたし/あなた}が 運動場で遊んでいる] とみんなに言っているようだ。
伝達者の視点(間接) 「太郎」の視点(直接)
どちらも引用句内の主語は伝達者の視点を反映し、「間接化」が起きていることを示す。しかし、述語は元発話の話者「太郎」の視点を反映し、間接化が阻止され「直接引用化」が起きていることを示す。つまり、これらの引用句は伝達者と元発話の話者の視点が混交し、その状態ではじめて文法性が保てる「準間接引用句」と呼ばれるものである。ここに例示しないが、「淋しい、暑い」などの感覚表現、「誘いかけ」の「〜(し)よう」などを述語にする発話が間接的に引用された場合も同様の現象を示し、結果として「準間接引用句」が作り出される。
「引用」という言語行為を「同化」のプロセスとして見る立場は、中園(1994)の言う「間接化のプロセス」などの概念とも共通する面を持つが、発話の持つ「発話性」という観点でそのプロセスを説明しようとする点は他にはない斬新なものだと言えよう。それにより「視点」の変換のみで「引用」を種別する方法の限界が解決されるからである。廣瀬(1988)は「聞き手志向」か否かという「視点」の変換に基ずく引用観のいい例である。廣瀬は言語表現には「公的表現」と「私的表現」があり、前者は「聞き手を志向し、伝達を目的とした、社会的営みとしての思考表現行為」、後者は「聞き手の存在を考慮に入れない、伝達を目的としない個人的営みとしての思考表現行為」であるという。そして、直接話法――廣瀬は「引用」と「話法」を厳密に区別していない――とは「公的表現」の引用であり、間接話法とは「私的表現」の引用である、という。終助詞「よ、ね」など、命令表現「走れ」など、丁寧体「です、ます」などを前者の典型的な例とし、一方、引用動詞「思う」に導かれるような表現を後者の例とする。つまり、「〜と思う」の引用句に「です、ます」が出現できないのは、私的表現のみが許容されるところに公的表現である「直接話法」が現われるからで、下の(22)b.が非文であるのはその理由だという。
(22)a. 私は行くと思います。
b. 私は{*行きます/*行くよ}と思います。
確かに、「〜と思う」に聞き手を想定した「です、ます」を出現させるのは、水と油を混ぜるようなものであり、聞き手を想定しない「間接話法」のみが許容されることになる。しかし、同じく、聞き手を想定しない次の様な表現が引用されても、それを「間接話法」と見なすべきなのであろうか。
(23) 佐藤:ただそれらしい音楽が入ってくるっていうのは一番あああっと思いますよ。(NHK-FM 「日曜喫茶室」)
「あああっ」いう表現は紛れもなく「私的表現」であるが、だからといってこれを「間接話法」と見なすことは大方の言語感覚に反するものである。これは、聞き手を想定しない私的表現であるが、十分な発話性を備えた直接引用表現である。聞き手志向の代表格である「命令文」が間接化によるダイクシス変換を許す(12)(私が行けという返事が先生から戻っ
てきた。)も、同様に、発話の志向性という視点に関わる概念では説明しきれない現象であり、「発話性」という概念抜きには説明の付かないものである。
我々は常に時間的経過の中で発話を行っている。つい先程経験したこと、あるいは近い将来経験することを今の発話の中に盛り込みながら発話を行うのである。そして、今現在の発話は今現在のコンテクスト(スキーマ)の中で行われ、今の発話の場に最も相応しい形態で表現されることが期待される。引用という言語行為も、当然、同じく時間的経過の中で行われる行為であり、過去の発話の引用であれ、近い将来起きるであろう発話の引用であれ、それを今現在の発話の場に最も相応しい形態で表現されなければならない。このような枠組みで捉えたのがここで展開した「引用句創造説」である。
発話の場のコンテクストとは何か、スキーマとは何か、それに相応しい「直接引用スタイル」のより詳細な記述、「間接引用」にまつわる文法的記述(例えば、助詞「と」の扱い)、等々引用研究はコミュニケーション論、表現論、文法論と、まさしく言語を取り巻くすべての要素を対象にする幅広い研究分野である。ここで述べられなかったことは拙書(2000a)を参照いただければ幸いである。これらの疑問に僅かなりとも答えられたのではないかと思う。
注:
1) 通常「かれ」は省略されるか(=φ)、「自分」で表される。
引用文献:
廣瀬幸生(1988)「言語表現のレベルと話法」『日本語学』7.9. 明治書院
鎌田 修(2000a)『日本語の引用』ひつじ書房
鎌田 修(2000b)「日本語の引用」『日本語学』(4月臨時増刊号)19.5.明治書院
Kuroda, S-Y.(1973) Where epistemology, style, and grammar meet: a case study from Japanese. In Anderson and Kiparsky, eds. A Festschrift for Morris Halle. Holt Rinehart & Winston.
中園篤典(1994)「引用文のダイクシス - 発話行為論からの分析 -」『言語研究』105
仁田義雄(1991)『日本語のモダリティと人称』ひつじ書房
砂川有里子(1989)「引用と話法」『講座日本語と日本語教育』4 明治書院
山内博之(投稿中)「日本語の引用句におけるモダリティとダイクシスの関わりについて」