論文集をしばらく控えること

松本 功


 論文集は、若手の研究者に論文の書く場を提供するという機能があったのだと思う。私自身も、ひつじ書房を起こす前に記念論文集をいくつか、担当して、若い研究者の方々と出会うことができた。そのことはたいへんありがたいと思っているし、その機能は、今でも重要なことだと思うけれども、マイナスの面が強くなってきたと思うので、残念なことではあるが、しばらく、記念論文集の刊行はやめることにしたい。記念の論文集ではない企画ものについては、また別である。このことについては『ルネッサンス・パブリッシャー宣言』の「学問再生産機能不全」にその理由を述べているけれども、かならずしも多くの方にお読みいただけるか、分からないので、繰り返しになる部分もあるが、この目録でも触れておくことにする。

 論文集は、執筆者が多くに及ぶことがあるが、論文の執筆の形式が統一されていないので、極端に言うと割り付けをする場合、人数分の冊数の手間がかかってしまう。論文の書き方を一つに統一すべきだと今さら主張するつもりはないが、例文の番号にしろ、比較的欧米の場合、学会誌などでは、少なくとも同じ流派の中では体裁が統一されているのに比べると今にいたるまで、レイアウトをする側の負担に関心が及んでいない現状には疑問を感じてしまう。当たり前のことだが、ゲラのやり取りの手数は、その人数分かかるわけであるし、期日を守って下さらない場合は、催促しないといけないこともある。しかも、編集委員の先生方が遅れることが多い。催促はあまりする方ではないし、する余裕も残念ながらない。同じ手間をかけるのであれば、著者がひとりの本にその労力を傾けた方が、仕事をする側の気持ちもよい。本を出す際の経済性に問題がある場合には、正直なことを申し上げて、なにがしかの負担をお願いすることもないわけではないが、執筆者が、複数の場合、そういうことはできない。

 人手がないのなら、誰かに頼めばいいのではないか、人を雇えばいいのではないかと思われるかも知れない。それは間違った考えだ。もともと売れないものを出しているのであるから、コストをさらにはかけられないのである。また、専門的な論文集を面白がって編集する人材を見つけるのもなかなか難しいことである。隣接分野の人をも面白がらせることのできる書きぶりであれば、面白がる努力を払うことができるのであるけれども。学術論文を面白がろうとする能力のある人間を、この世の中で、簡単に見いだせるものでもない。出版社にあこがれる人間は、多いが、本を作る苦しみを楽しみに変える才能のある人材を、見つけて、育てることは現実的には容易なことではない。

 問題は、売れないということだ。読んで、買ってくれる人が多いのなら、手間はよろこんでかけられるのである。現実は、読まれているのかも知れないが、コピーされてしまう。また、論文を発表する人は多いが、買う人がいないということである。これはなかなか深刻な問題である。一生懸命に本作りの作業をしても、泊まり込みで仕事をしたとしても、その労力が報われないようになっているということである。手間のかけがいがない。報われない仕事をすることは、なかなかきついことである。報われないと心の底で思っているものを、新人社員にやってもらうこともきつい。「仕事をしないように仕事をしろ」というのは、難題である。事実、昨年は、他の原因もあるだろうが、突然、途中まで手間をかけて育てていた新人に、辞められてしまった。こうなると手間のかかる仕事は、私自身がやらざるを得ないことになって、仕事が山積みの私が担当すると本がなかなかできないことになってしまう。

 残念ながら、より報われない方向に事態は進展しているようでさえある。最近、衝撃的なことがいくつかあった。小社の力を込めて作っている本が、出版の権利の国際的なルールであるベルヌ条約に加盟したはずの国で、不法に海賊版が作られていること。1500部で採算をとる本が、500部不法に作られ、購入されれば、壊滅的な打撃を受けてしまうことは明白だ。重版もできなくなってしまう。そのようなものを売ったり、買ったりすることは、私やスタッフを殺すことと同じである。犯罪である。出版の息を止めるということでは、学問への冒涜でもある。朝鮮学会では、若い女性の研究者に「高いからね」と面と向かっていわれたことがある。たぶん、そのことばの後には「向こうで買う」という言葉が続くのだろう。そうだとするとその人は、出版社にとっては殺人者である。

 本を作るというコストを考えないで、複製するコストしか視野にない。不法な海賊版ばかりではなく、国立国語研究所が所員の論文を、無料転載するという事業を進めている。この話しを聞いたとき、出版社が必要とされていないということだと思わざるをえず、1週間寝込んで、何もできなかったくらいだ。今も脱力感が抜けていない。昨年だしたばかりの論文をそのまま全文転載するということは、どういうことなのだろうか、無料で。私は知らなかったが、すでに運営が3年目だと言うことなので、所員および学会にも認知されていることなのだろうから、詳しく反論する必要があるだろう。どうして今まで他の出版社は抗議しなかったのだろう。疑問点を提示す る。


1 出版社がどうやって生きていると思っているのか

2 出版社がなくてもよいと思っているのなら、なぜ、すべての刊行物を学会や国立国語研究所でださないのか

3 出版社がなくなった後、学問の存続ができると思っているのだろうか?

1について述べる。出版社は刊行物を出し、それが売れることで生きている。売り物の中に入っている論文を、無料で配布することは、その出版物の商品的な価値をなくすものである。仮に4000円する本の半分が、無料配布されていた時、のこりの150ページだけのために4000円払って本を買おうと思うだろうか? のこりの部分もコピーしてすまそうと思うだろう。そうなれば、売れなくなってしまう。売れなくなれば、出版社はなりたたなくなるのである。こんなことがどうして分からないのだろうか?

そういうことが、特にどの学者からもおかしいという声もなく、3年も継続して行われている状況では、研究者の一部が、組織的な複製を是だとおもっていることになり、そんな中で、論文集を出し続けることは、御免である。やろうとしていることが、だれにも尊敬されず、尊重されないならば。出版社が不要だという人々のために、自分自身の人生も生活も犠牲にして、本を作ることができるだろうか?

 このようなことを問題にし、文章にして説明しなければならないという事態にどうしてなってしまったのだろう。これは文化的な貧困であり、国の政策が文化的な貧困であるのではなく、研究者自身の一部の行動が、この貧しさを作っているということだ。そのことに、衝撃を感じる。コミュニケーション不能ということばですまされないのではないか。この状態はどうして起きてしまったのか。

 本の刊行が遅れ、出版社として十分な責務を果たせていないことは、承知しているし、批判をお持ちの方も少なからずいらっしゃるだろう。釈明の余地もない。しかしながら、このような事態を放置しておくことは、出版社の生存を不可能にすることであると私は思う。ひつじ書房ばかりではなく、研究書を刊行する出版社がなくなってしまう。少なくとも本当に死んでしまう前に、赤信号だけは灯しておきたかった。その小さな悲鳴として『ルネッサンスパブリッシャー宣言』を公刊した。



まつもと・いさお(ひつじ書房房主)