房主より( 房主の妻バージョン)

ひつじ書房の10年め

                松本久美子

捧げの会

 4月なかば、『ルネッサンスパブリッシャー宣言』が刊行された。本が来た日、「捧げの会」をすると前から、松本が公言していたので、私も密かに近くのケーキ屋に『刊行おめでとう』の文字を入れてもらったデコレーションケーキを注文しておいた。

 情熱的な赤のばらの花束(10本!)付きで本をもらった。本当なら、私の誕生日の2月にもらうはずだったので、2カ月遅れの誕生日プレゼントということである。泣くつもりではなかったが、やはり自然に涙がこぼれて、結婚式でケーキの入刀をして以来の人前での涙であった。

 ひつじ書房は今年で10年目にはいり、21世紀を迎えるに当たって大事な時期に来ている。この時期に、松本自身の自著が出たことは1つの節目と考えると、実に感慨深い。ここまで来たという気持ちと、これからも続けて行かねばと言う責任がともない何とも言えない気持ちであった。

事務所に寝泊まりしていたこと

 『ルネパブ』のあとがきに、(今の20坪に移る前の6.5坪の)事務所で寝泊まりしていたことあった。どうして泊まり込むようになったのかときかれれば、やはり仕事が際限なくある状態であることと、自宅の通勤に往復3時間取られてしまうということ、寝に帰るだけの家を事務所の近くに借りるには家賃が高すぎることなどであった。

 一度泊まってしまえば、眠くなれば直ぐ寝れる、起きれば直ぐに仕事が始められるという状況は本当に楽で、事務所の大家さんの「24時間使ってくれて構わない」という言葉にも励まされ、1年以上も続けてしまった。

 特に面白かったのは、お風呂がないので、銭湯に行くようになったことである。銭湯には銭湯マップというのがあり、それを見て神保町だけではなく神楽坂や本郷にも足をのばした。今の銭湯は、ほとんどがフロント形式になっていて、お風呂も、薬湯あり、ジャグジーあり、サウナが付いていたり(別料金を取るところもある)でいたれりつくせりという感じでちょっとした健康ランドである。また客層も場所によって違っていたり、『1010(せんとうと読む?)』という小冊子があったりと、自宅風呂では味わえない楽しさがあった。事務所の近くの銭湯は、ここは昔ながらの銭湯で、天井が非常に高く、番台も古くさく、番台から男風呂も女風呂も中が見通せるようになっていて、ちょっと最初は裸で風呂にはいるのが恥ずかしい感じだったが、慣れてくると番台にすわっているおばさんと話しをしたりするようになった。(松本は本当に長風呂である。いつも私が待たされていて、おばさんによく、入浴状況を報告してもらっていた。)

 またちょうどこのころ、世間では大きな事件が2つあった。1つは阪神大震災、もう1つはオウムの事件である。

 阪神大震災は起こった朝、妹から「阪神が壊滅している。テレビを付けて見てごらん。」という電話に起こされ、慌ててうつりの悪い携帯テレビをつけてみてわかったのである。だんだんに増える死傷者の数をにらみながら、神戸に住まいのある著者の先生や、知人に電話をかけたが、全く通ぜず、心配しながら過ごした1日は今さらのように鮮明な記憶である。寝袋で寝起きしている生活をしていたので、被災者の、家を壊され、大勢の人たちと寝袋で就寝をともにすることのストレスは痛いほど理解できて、本当に心が痛んだ。

 オウムの事件があった時には、社用に使っている中古のシビックを事務所のビルの前に止めておいたら、あっというまに警察に引っ張られてしまった。車の色が赤だったのが災いしたのか、他にもいかにも社用という車は残っていたのに、うちのだけが持ってかれてしまっていた。制服警官に朝起こされたのも、この頃だと思うのだが、事務所にこもっている若い(?)夫婦らしい男女ということで、なんだか怪しく思われていたのかも知れない。

ひつじの可愛い子どもたち

 この10年でひつじが出版した本は100点を越えたが、私が編集した本はわずかで、その中でも特に印象に残っているのが2点ある。1点は初めて私がつくった本『方言地理学の展開』で、これは650ページもあり、図版も表も多くて、割り付けをするのにも、校正をするのにも、索引を作るのにも、初心者の私には非常にきつい作業であった。(後に松本が「編集者養成ギプス」と呼んだ)。「私は編集には向いていないんだ!」という泣き言を、松本が全く取り合ってくれない中で、著者の徳川先生のすばらしい校正技術に舌を巻き、励まされながら、1年近くをかけて出版した。

 もう1点は『身体の構築学』で、これはDTPでまるまる作った最初の本で、図版も写真も自力でマックで組んだり、取り込んだりしながら1年以上かかってしまった。今から考えると非常に贅沢に時間をかけれた本である。これは論文集であるが、書き手の多くが新進気鋭の年齢も私に近い研究者で、研究会にも参加していたので(この頃はまだそんなふうに時間に余裕もあった)一緒に本を作っているという一体感があり達成感があった。

 この2点だけではなく、実はどの本にも種々様々な感慨があり、どの本もひつじが生み出した可愛い娘・息子である。こうして作った本が売れずに、取次から返品として汚れて戻ってくると本当にけしからんと腹が立ってしまう。ひどい状態だと足跡がついたりしている(これが本当に足蹴にするということなのか!?)。大事な子どもたちなのだから、せめてきれいな形で戻して欲しいと願うのである。

一期一会

 最近ではさすがに慣れたが、初めて学会に出て本を売ったときは本当に恥ずかしかった。なぜならその売る本がなかったのである。ひつじを起こしてから1年は全く本が出ていなかった。で、どうしていたかというとパンフレットだけを配って、予約を取っていたのである。これは日本語研究叢書第1期のパンフレットで、ひつじ書房を起こした趣旨と、そして推薦の言葉、第1期の内容が書かれていた。私はそのパンフレットをみて、読んだとき、松本がしっかりとした考えを持って独立したことをあらためて感じ、嬉しく思った記憶がある。

 徐々に本が増え、学会という雰囲気もわかってきた。その中で、著者の先生方にお会いしたり、これから書いていただく先生にお会いしたり、またいずれ海の物とも山の物とも知れない出版社の刊行物に定期予約をしてくれた多くの先生にお会いできたことは本当にどれも感慨深く、忘れられない。

 私は元来、人と話をするのは苦手で、特に初対面の人となると、とてもあがってしまうため非常に気疲れしてしまい、いやであった。それが、この仕事を通してだんだんと慣れてきて、特にすばらしい人に会えるという機会を持てるのは本当に嬉しいことである。(最近のヒット(?)はなんといっても、N先生の「奥さん、だいぶ、ふくよかになられましたか〜」の一言である。おかげで、それから5キロも減量できました。)

雇用者の立場

 今年初めて、新卒者を正規採用した。「投げ銭」という言葉に生命をくれた、賀内である。そして来年、正社員となってくれる阿達がいる。昨年ひつじでは大きなメンバー交代があった。結果的に編集と会計・商管のおもだった仕事をやってもらっていた2人が同時に退社することになったので、私が出産・育児休暇後の完全復帰となった。それまでは早出をして、早退したりしていたのだが、帰りが6時半、8時半、さらには終電ぎりぎりまでと仕事をする時間がのび、最近では娘が幼稚園は行き始めたこともあって、就寝時間が早くなり、朝送り出すと、夜はもう寝顔しか見れない日が続いている。(松本の両親には、今まで、家に住まわせてくれ、資金を貸していただき、さらに娘の面倒までみてもらっている。ここであらためて深く感謝をのべたい。)

 私の補助としてアルバイトの学生さんが3人ついてくれている。彼女たちに仕事をお願いし、賀内・阿達にいろいろと指導をしていると、いろんな面で私も雇用者になっているのだということを感じている。ここ10年目にしてそう感じるのは、自覚するのが遅すぎると松本にまた、文句を言われそうだが、私の当初の計画としては、35歳で引退し40歳代になる前に自分の人生を見つめ直そうと計画していたのだから、ここに来てまた大きく修正することになったのである。

これからのひつじの10年

 これから、私が見つめていくのは、ひつじ書房と娘の成長になった。『ルネパブ』で松本が提唱したことがどれだけ実を結ぶのか、はたまた、つぼみのまましぼんでしまうのか。その答えがでるのはさらに10年がかかるであろう。

 いくつかの本の刊行が遅れている中で、先に自著を出したのは、確かに松本のわがままなのであるが、この2〜3年だんだんと学会でも本が売れなくなってきたことや、ダイレクトメールを出しても1割程度も注文がこない状況を見ると、やはりこのままの経営を続けていけば、ひつじの先はないだろうという緊迫感は私でもわかるのである。21世紀における学術出版のあり方をやはりここで提唱しておきたかったのである。

 『ルネパブ』はよく読むと『まだまだ甘いな・・。たかだか会社経営10年のひよっこが何をやいわん』というおしかりもあるであろう。

 ご支援感謝、おしかり結構、それらをすべてありがたく拝聴し、またそれをバネにして私たちはひつじという会社を成長させて行きたい。

 ここまでこられたのは、まさにそういった大勢の方々のおかげでなのであるから。



松本功(房主)・松本久美子

スタッフ 賀内麻由子(新人)・阿達志都(次期新人)

松本実(春日部)・入口三津子(福江)

アルバイトのみなさん {出荷・事務ほか}朝倉由紀子・荒川真樹・田中絢子・藤田実代子

{学術情報スタッフ}飯田崇雄・御手洗陽・鯖山