新刊紹介

佐佐木隆著 『伝承と言語』

古橋 信孝

 現在、古事記・日本書紀の研究は停滞しているように思える。文化人類学や神話学の導入以降、新しい方法が見出せないでいるからである。そして、全体的な方向として、具体的な言葉や表現にこだわるという最も当たり前で正統的な方向に向かっていると思う。かといって、いわゆる文献主義ではない。高度な方法意識をもった研究をくぐり抜けた後では、素朴に文献を信じることなどできない。ただ、方法が先行する議論は空しいということが確認されたことで、実証的な研究に戻っているということができるのだと思う。文献の内部に閉じることからは読めないという問題は、方法が問われた時代を経て、共通の確認になっている。言葉や表現にいかに忠実であろうとしても、結局その理解が近代的な観念や感性に縛られている限り、その読みは近代的なものでしかないからである。古代研究である限り、古代にいかに近づくかが常に問われていなければならないのだ。
 こんな方法議論から始めたのは、この『伝承と言語』が、方法の先行した状況以降の古事記・日本書紀研究の典型のひとつといえるからである。本書の基本的な方法は、古代の固有性と言葉そのものに具体的にこだわることである。この古代の固有性は楽観的な文献主義からは生まれないし、言葉にこだわる姿勢はきわめて実証的であることであり、いづれも現在の状況をあらわしている。
 具体的には、本書は、伝承がある言葉を核にして、その言葉からの古代的な連想の仕方で生まれてくるということを論じている。本書は「国見」儀礼をふまえた説話を論じる1部と、言葉から伝承の成立を論じる2部から成っている。1部は、「国見」儀礼のもつ神話的な意味を関連するさまざまな説話から探っている。「国讃めの成否」が「聖婚の成否」と密接に関連していること、国讃めと生死の神話の関連など、これまでの古代神話・説話論からは導けなかった成果といえる。2は、置目伝説が、オシハ王のハが歯であり、オソハ(不揃いの歯)との連想で成立すること、丹塗矢伝説は、セヤダタラ姫のセヤが瀬を流れる矢という像をもたらすことから成立することなど、言葉が物語を孕む重要な要素であることを論証している。
 これらの論考は、文化人類学、神話学や表現論といわれる言葉や表現から歌や伝承を見直そうとする方法の延長にあるということもできる。そのような方法がより広く実証的になされたもので、たぶん、国語学(言語学)者である著者の論証の仕方がそれに合わさることで可能になったと思われる。そして、実証的な方向が国語学、文学、歴史学といった区分を超えようとしているという意味で、また、きわめて現代の状況をあらわしているともいえる。  

                                            (一九九五年五月二六日 四六判 三二二頁
                                                定価四、三二六円 ひつじ書房)
                                              〔ふるはし・のぶよし 武蔵大学教授〕 

                            国文学(至文堂)より


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