概念史研究会発足の趣旨
 
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2019.4.16更新

言語学の一般的な前提として「言語記号の恣意性」というものがある。これは言語学の大前提になっている。何かの語にその意味があるとして、その語の指すもの=意味と言葉は本来的に無関係であるという考えである。猫と呼ばれている生き物が、日本語ではネコと呼ばれ、英語ではcatと呼ばれ、そのことは「恣意的」であるというのは、理解できることである。

しかし、言語記号自体は恣意的であったとしても、社会的に使われる際には、語は単独で存在するわけではないので、他の語との関連性の中に存在しているし、歴史的に存在する。語や語の意味が変わる場合には、そのような関連性の中で変化していくということになる。

言語記号において意味が固定的なものではなく、社会的に使われるなかで成立するという観点は、本質主義的な考えに対する批判としては妥当であるが、どうにでもなる、どのようであっても自由自在であると考えると、言語の社会的な存在を考える際には、割り切れなさが生まれることになる。もし、他の語との関連性をいうのなら、あるいは歴史的に考えるなら、どのように構築されるのか、どのように構築せざるを得なかったのか、議論が生まれるのは当然であろう。

恣意的な記号としての言語の捉え方と別の段階として、社会的な蓄積としての言語の捉え方があると考えた方が、社会的な言語や言語と社会の関わりについて考察することが可能なのではないか。社会的な言語や言語と社会の関わりについて考察する時に、意味はその場その場で交渉されるということを強調するあまり、場合によっては議論自体を不成立としてしまったり、避けてしまうことは生産的ではないだろう。本質主義的な言語観への批判的な視点は重要であるが、別の段階として議論をすることを尊重したいと考える。

概念史研究には、普遍的と考えられる概念についても歴史的に作られた概念として考察するという視点があり、場合によっては政治的に保守派と見なされることもある(ドイツで概念史を提唱したコゼレックは、カール・シュミットの影響を受けていて、ハーバーマスとの論争がある)が、そのような政治的な立場よりも、言語と社会について歴史的に考察する概念史という議論の方法は重要で有意義なものと思われる。概念史について議論することで、言語の社会的な存在のあり方と言語と歴史の関わり方を考えたい。歴史研究者と言語研究者と社会的視点で言語に注目する研究者の協働の場所としたい。